2019年02月01日

1 武侠三国志 剣豪徐庶の物語

その夜は満月であった。

許褚はいつもの通り、近衛兵たちを指揮し、曹操が眠る宮殿で警備にあたっていた。

曹操はすでに、中原を制定し、天下の三分の二を手中にしたとはいえ、南には、劉備と孫権がいる。彼らが曹操に対して、刺客を送り込んでくるかもしれないことは、学のない許褚でも予想できた。

そうであるから、曹操から、

「お前も、たまには、わしの警護を他の者に任せて、休むように」

と言われても、頑として、受け入れなかった。

赤壁の戦いで大敗北を喫した後でも、曹操は、配下の者を責めることはしなかった。

許褚も、自らが率いた部隊が全滅し、生き残ったのは己一人という悲惨な状況に陥ったが、咎められることはなかった。

それどころか、

「許褚よ。お前は生き残ってくれた。お前さえ生きていれば、どれほどボロ負けしようと我軍は安泰だ」

と励ましてくれたのだ。

許褚は、身を粉にして、曹操のために尽くそうと言う意思をより一層強くしたのだった。




「今宵の月は一際大きいな……」

許褚は、月を見上げながらひとりごちる。それに応える者はいない。

他の近衛兵は、許褚が指示した通りの配置についており、許褚自身は、最後の門番とばかりに、一人で、曹操の眠る建物の扉の前に陣取っている。

その眼差しに、ウトウトした様子は全く無い。あくび一つせずに、油断なくあたりを警戒していたのだ。

とりわけ、今夜のような月明かりの強い夜は、火を焚かなくても、あたりを見通すことができる。

刺客は門から来るとは限らない。屋根伝いに忍び込んでくることもあろう。

そう考えて、許褚は、屋根にも油断なく目を配った。

異変に気づいたのは、その時だった。

向かい側の建物の屋根に、小さな人影を見た。

この夜更けに屋根の修理をするものなどいるはずがない。曹操の寝殿近くで、屋根をうろついているのは……。

「何奴だ!」

許褚の咆哮が闇夜に響く。

その刺客にも間違いなく、聞こえたはずである。

小さな人影は微動だにしなかった。

「くすくす……」

と、失笑を漏らしたようである。

女か? あるいは子供か?

許褚は、戸惑った。

まず、考えたのは、曹操の子に、屋根に上がるようなお転婆な子はいただろうか。ということだった。

だが、その考えはすぐに打ち消した。

そんな子はいないはずだと。

となれば、この宮殿に仕える童子だろうか。いずれにしても、この夜更けに、曹操の寝殿近くの屋根に上がっているなどと、許されることではない。

斬首されてもおかしくない大罪である。

「おい! 降りてこい!」

「くすくす……」

「何がおかしい!」

「おかしいことはいろいろとあるよ」

間違いなく子供の声だ。

「笑ってないで降りてこい! ここがどこだか分かっているのか! 俺が誰だか分かっているのか!」

「くすくす……」

「何がおかしいんだ!」

「ここがどこだか分かっているのかって、もちろん知っているさ。父上の宮殿さ。それに、お前が誰か知っているかって? もちろんさ。馬鹿力だけが自慢の脳筋許褚だろ」

さっ……と、許褚は青ざめた。

父上の宮殿というからには、その者が、曹操の子息なのだろう。

「し、失礼いたしました。公子。このような夜更けに、屋根に上がるなど、危ないですぞ。さっ、お降りください」

「こんな月夜に、そんなとこで、立ちんぼしてつまらないだろ。お前も上がってこいよ」

「はっ……。今、ハシゴをお持ちしますので……。ああっ、しかし、公子、一体どうやって屋根に上がられたのですか」

「くすくす……」

「公子、何がおかしいので……?」

「この程度の高さの屋根に上がるのに、どうしてハシゴが必要なんだい?」

「さすが、公子。ハシゴを使わずに登れる場所を見つけたのですな」

「そんな場所はないさ。そこからぴょーんと飛べばいいんだよ」

「はあ?」

「その場で飛んでみろと言っているんだよ。くすくす……」

「公子……。ご冗談を……」

一体何者なのだろう?

曹操の子息で、飛ぶだけで屋根に上がれるほどの者となれば、曹彰ぐらいしか思いつかない。が、曹彰は、成人しているし、あのように小柄ではない。

許褚は、もう一度、その人影を凝視したが、容貌ははっきりしなかった。

「くすくす……。お前は、豚みたいにでぶでぶしていて、飛べないんだろ」

「はあ……。私は確かに、太りすぎだと自覚しております」

「もっとも、お前が、飛べないのは、僕みたいな軽功を身に着けていないからだよな」

「軽功?」

「くすくす……。父上の親衛隊長というべきお前が、軽功も使えないで、どうやって、父上を守ると言うんだい?」

「あの……。公子、軽功とは、一体なんでしょう?」

「今、見せてやるよ」

許褚があっ、と声を漏らした時は、その人影が、屋根から大きく飛び上がっていた。

屋根から地面まで、許褚のような巨漢を三人積み上げたほどの高さはある。

その高さから、子供が飛び降りて、無事で済むはずがない。

危ない! と声を漏らす間もなく、人影は地面に降り立っていた。

白鳥が地面に降り立ったように、物音一つ立てずに、軽やかに着地した。

もちろん、尻餅をつくこともなく、当たり前のように、許褚の前に立っていた。

その鮮やかな身のこなしに、許褚は瞠目したが、その直後、心臓が止まるかと思うほどの驚きを味わうことになる。
posted by ノベル時代社武侠小説プロジェクト at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載小説 武侠三国志 剣豪徐庶の物語
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