「痛いよう! 痛いよう! エーン、エーン」
軽やかに着地したように見えて、やっぱり骨折したのだろうか。人影が地面にうずくまってしまった。
「公子!」
許褚が慌てて、駆け寄り、その小さな人影を抱えあげようとした。
その時である。
ズシン。
許褚は、その場に尻もちをついていた。
腕を伸ばしたまま、金縛りにあったように身動きができなくなったのだ。
おまけに口も聞けなくなっていた。
驚きのあまり凍りついてしまった。と、他の者が見れば思うだろう。
事実、許褚は、声にならないいくつもの悲鳴を漏らしていた。
そんな馬鹿な!
うずくまっていた人影がすくっと立ち上がった。
嘘泣きだったのだ。もちろん、怪我もしていない。
月明かりに照らされて、その顔が顕になった時、許褚は、ひとつ目の悲鳴を漏らした。
そ、曹沖様……! そんな馬鹿な! お亡くなりになったはずなのに!
曹沖。字は倉舒。
曹操の子息の中で、最も優秀とされており、曹操が後継者にと期待していた。
ところが、数年前に、わずか、十三歳にして夭折。
曹操の嘆きは、一方ならぬもので、曹沖と共に棺に入りたいなどど言い出す始末で、許褚ら、側近が力づくで止めたほどである。
あれほど、憔悴した曹操を許褚も初めてみたのだった。
もちろん、曹沖の遺体が埋葬されるところを許褚も見届けている。
なのに、その曹沖が、今、許褚の目の前にすくっと立っている。
「久しぶりだね。許褚」
許褚は、声を出すことができなかった。
驚きのあまりということもあるが、それだけではない。
お、おかしい! 体が全く動かない……!
もちろん、声も出ないということに気づいたのだ。
「僕を忘れたのかい? 僕はあの日から、ずっと年をとっていないから、わからないはずはないと思うんだけどね」
曹沖がクスクスと笑って、言葉を次ぐ。
「もしかして、何をされたのかわかっていないのかい? まさか、父上の親衛隊長ともあろうお前が、点穴を知らないはずはあるまい」
て、点穴……?
許褚は、はっと思い出した。
医術を極めた者は、人体の要所にあるツボに対して、刺激を与えることによって、相手に内傷を負わせたり、逆にツボを刺激することで、治癒させることができるという。
例えば、みぞおちを力任せに殴ることも、ツボを刺激する方法と言えるが、玄人は、力任せに殴るのではなく、それを指一本で成し遂げてしまう。
一本指でツボを、ポンと突くだけで、相手を麻痺させたり、昏倒させてしまうことができるのだ。
許褚も、一度、点穴されたことがある。
あの名医華佗によって。
華佗が、許褚のような猪武者など、指一本で制圧できると豪語したものだから、ならばと、許褚が殴りかかったところ、本当に、一本指で突かれて、昏倒してしまったのだ。
その後、驚いた曹操が、「この妖人め!」と、華佗を捕らえて、投獄してしまった。
曹沖は、華佗のその技に夢中になった。そこで、曹操に内緒で、華佗が囚われている牢屋に度々、足を運んでは、教えを請うていたようである。
それを知った曹操は、曹沖が妖術の虜になることを恐れて、華佗の処刑を命じた。
手を出したのは、他ならぬ、許褚自身である。
華佗の死を知った曹沖は、嘆きのあまり、病の床につき、程無くして亡くなったのだった。
「思い出したみたいだね。華佗先生にやられた時のことを」
許褚は瞠目するばかりである。
「この技は、小手先の技ではないよ。ツボの位置を知っているだけではダメなんだ。もちろん、指で突くだけの技ではない。内功を伴って初めて意味があるんだ」
内功……?
聞いたことのない言葉である。
「内功というのは気のことさ。お前のような猪武者は、力任せに殴ることしかできないだろうけど、内功を使えるようになれば、僕みたいな、小さい体でも、お前みたいなデブを突き飛ばすことができるんだ。何なら試してみるかい」
曹沖が許褚の顔に向かって、手の平を突き出した。
許褚の顔の顔に、曹沖の手の平は触れていない。
だが……。
パン!
許褚は、仰向けにひっくり返っていた。
曹沖の手の平から、突風が吹き出した。そうとしか思えなかった。
台風の風を手の平サイズに凝縮したような風の塊が、許褚の顔に直撃。
か、顔が潰れた!
と錯覚したほどの衝撃である。
意識が遠のいた。目の前が真っ白になる。
かろうじて、クスクスという曹沖の笑い声が聞こえるばかりだった。
「これが内功の力さ。この力を指一本に凝縮して、打つのが、点穴技なんだ……。ねえ。許褚、聞いているかい? 寝るなよ。僕と遊ぼうよ」
曹沖が無邪気な声を上げながら、許褚の脇腹をける。
ぐおっ……。
猛牛に突進されたかのような衝撃が走った。
体が屋根の高さほどまで舞ったと思うと、次の瞬間には……。
ドスーン!
顔から地面に叩きつけられていた。
だが、全く、身動きの取れない許褚は、受け身が取れない。
額が割れ、地面に血が滴った。
曹沖は、クスクスと笑いながら、またしても、許褚の体をまるでマリのように蹴り上げる。
そのたびに、許褚は、とてつもない衝撃を受けていた。
こ、このままでは殺されてしまう!
しかし、体が全く動かない。
くっ! こんなところで殺されるわけには……!
絶望的な思いにとらわれた時、どこかから、不気味な声が響き渡った。
「曹沖よ。それくらいにしておけ……」
曹沖が、けまりをやめた。声の主に向かってかしこまったようである。
「し、師父。お出ましだったのですか……!」
「お前が、抜けだしたことに気づかないとでも思ったかえ? こんな夜中に、抜け出すとは悪い子だ」
「ごめんなさい。師父。でも、華佗先生にひどい目に合わせた、こいつのことは許せなかったんです」
「わしの許しなく、勝手に抜け出すでない!」
「は、はい。師父!」
「戻るぞ」
「はい」
曹沖が、バッと屋根へ飛び上がった。
屋根には、曹沖の倍の背丈がある黒い長衫の男がいたが、影になっていて、容貌ははっきりしない。
「許褚。点穴は、朝になれば自然に解けるよ。それまで、おねんねしていな」
クスクスという笑い声を残して、二人はどこかへと飛び去った。
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